マインドフルネス・セラピー ぬくもり

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2024.12.16
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単純に疑問を感じている最近の気持ち

私は子供の頃から、しみじみと話し合える人が好きでした。そして、しみじみとしていない人は一緒に居ても何だかつまらないなと感じていました。今思うと、このしみじみというのは共感のことだったのです。

 

しみじみと話ができる人との関係は、ネガティブな気持ちも安心して話せます。なぜなら、どんな話でもちゃんと聞いてくれるからです。ドンとお腹で受け取ってくれて、こちらの身になって感じようとしてくれている。それが伝わってくから心地がいいのです。

 

昨今は、粋とか野暮という言葉はあまり聞かなくなりましたが、粋な人というのは素晴らしく共感力の高い人の総称なのだと思います。

 

肩に力が入ってなくて、自然に全肯定してくれるのですから、「かっこいい」の一言につきます。

 

かつて小唄のお稽古をしていた時、いぶし銀のような粋な方と出会いました。師匠とその方と私との3人で、よくいろんな所の小唄会に行ったものです。

 

その方は沢山の辛いことや悲しい体験が、心の濾過装置になっているのでしょう。そのお人柄から雑味のないさっぱりとした雰囲気が漂っていました。心にシミやシコリがないのです。

 

その上小唄が艶やかで、しかも上品でしたから、その方がそこに居られるだけで、ただそれだけでしみじみ感が漂ってきました。師匠は元芸妓さんでしたから、三味線のねじめにはなんとも言えない色気があって、小唄の情感がしっとりと引き出されて・・・聞く人を魅了しました。

 

当時のことを久しぶりに思い出しましたが、こうして偲ぶだけで色々なことが心のひだに届いてくる感じがして満たされてきます。

 

しかしこういう共感の世界とは反対に、とうとうと正論を口にて自分の優位性をアピールしている人は、野暮の見本みたいな気がします。

 

正しいだけの理路整然とした話・・・一方的で相手の存在など眼中にない言動・・・いつの間にか上下関係を作ってくる・・・この人が、どんなにお金や権威を持ち、いくら素敵な身なりをしていようとも、これでは心に響くものは何も伝わってきません。

 

昨今は、人生の哀しみや困難は不幸な事として嫌われ、無かったことにして排除することが良い事。気にしないで元気にしていることが良い事。と思っている人が多いのですが、これでは共感的な生き方はできません。いぶし銀のような心の艶はにじみ出てこないのです。

 

粋な人というのは、どんなに困難なことでも無かったことにしないで、腹の力を使って、自分の身の一部として大切に持ちこたえているのです。自分の身から遠ざけていないのです。排除していないのです。そして、それらを腹で感じ切っていけば、滋味に変わって行くことを、体験的に知っているのです。

 

明治の人たちの時代風土には、どうしようもない事を、ただひたすら感じ切っていくしか無い・・・『どうしようもない・・・回避できない厳しい生活環境』そのものが、腹を目覚めさせ、感覚に磨きをかけていたのではないでしょうか。我慢ではなく、耐えていく力は、生き抜く本当の強さを養っていったのでしょう。

 

私は、過去の封建的な時代を懐かしんでいるのではありません。

 

現代は、頭の合理性や科学技術万能の考え方に、あまりにも偏り過ぎていることに対して、単純に疑問を感じているのです。

 

便利で楽な方にばかりの安易さの方に流れていって、時代に遅れまいと追い立てられるままの我が身に対して、ちょっと立ち止まって『これでいいのだろうか?・・・』と、疑問を持って欲しいのです。

 

野暮な人ばかりの世の中では、人の心はカサカサに乾き切ってしまうでしょう。

 

だからと言って野暮を排除しようとしているのではありません。

 

実は、野暮な人は粋な生き方とはどういうものかを感じさせてくれる大事な存在です。野暮も粋も両方あるから互いに気づき合える大事な存在同士なのです。

 

私は、心のことを学ぶ前は、共感のできる人が素敵な人で、共感力のない人をつまらない人と思っていました。でも、今はこういう平面的な次元で簡単に嫌わなくなりました。

 

嫌うのではなく、お互いを理解しようと関心を持って、心のひだがかすかに揺れるような、深い関わりを持ちたいと思っているのです。

 

 

 

 

 

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