ブログ
人生の謎が、一つ解けました。
私が6歳の時に弟が生まれ、母の体があまり丈夫じゃなかったこともあって、3人兄弟の長女の私は母の実家の祖父母の家に1年間預けられた経験があります。
祖父母の家は1時間以上電車に乗らないと行かれないので、子供にとっては遠い所でした。
実は今回、尊敬している方の微妙な所作から、ちょっと寂しい気持ちを味わいました。
私は『はっ』とした瞬間から、右の肩甲骨の痛みと軽い頭痛が始まりました。一晩経過した後、これは新しいものではないと気づきましたので、背中に手を当ててもらいながら、肩甲骨の一点に意識を集中して感じて続けました。
初めのうちは昨晩の寂しさが出てきました。共感してもらっていたら、肩甲骨の痛みは消えました。
しかし、これで終わりではなかったのです。
この悲しみは、75年前母の元から離れて祖父母の家に行くことになった6歳の時の悲しい気持ちだ!・・・と、すぐに気がつきました。
今まで祖父母の家に行くことになった出来事は、そこだけが孤立しているような感じでしたが、急に浮上してきたのは母との別れ、離れて暮らす寂しさでした。
当時の私はこんな風にとっても悲しかったのだ!!・・・母のそばに居たかった!・・
居たいけれど、母は片時も目が離せない弟妹のお世話で精一杯・・・母の横顔を見ていればそういう母の心のうちが痛いほど分っていた・・・
私は母が大好きだから、母を助けられる者は私きり居ない・・・私が母方の祖父母のところに行けば、母は一番安心するだろう。同時に娘の体調を心配している祖父母の気持ちも理解できる。だからこそ、祖父母からの提案をすんなり受け入れ、私は自分の意志で決断したのだ。と、はっきりと感じられました。
しかし、どんな事情があろうとも、6歳の子が母親と別れて過ごす日々がどんなに寂しいものか!!・・・そこには大人の想像をはるかに超えるものがあったのです・・・
子供は自分の気持ちを十分に言語化することはできません。この悲しさがどんなに切なく深いものか・・・量り知れないものがあるのです。
祖父母は、私をそれはそれは大事にしてくれました。いつも私の好きなもの、美味しいものを食べさせてくれました。昭和22年ごろはまだまだ物資が不足しておりましたが、おやつには“きみしぐれやうぐいす餅”など、きれいな和菓子も時には用意されていました。子供だから、甘くて美味しいお菓子に目が眩んでニコニコしていたでしょうが、本当の私の心は、母親恋しさに泣いていたのです。今まで、どこか他人事だったこの時の悲しさが、今回初めて生々しく蘇ってきたのです。
祖父母の優しさは、私の心を十分に和ませてくれました。その温もりは今でも体に残って居て、困難に出会ったとき私を内面から支えてくれております。
しかし今回は今までとは何か違う次元のものを感じました。
母親を慕う気持ちは、どんなに尽くしてもらっても誰にも埋められないものがある・・・
とめどなく涙が溢れて止まりませんでした。さめざめと泣きました。
そして、今の私が6歳の時の寂しい気持ちをしっかり抱きしめながら『さみしかったね〜〜』『美味しいものやお菓子よりも、本当は、隅っこでもいいから、お母さんの側に居たかったね〜〜』って、何度も言葉をかけながら、優しく自分を抱きしめておりました。
他の何にものにも替えがたい寂しさ、悲しさを実感し、感じ切った時、今までとは明らかに違う感覚で、人の心を思いやる柔らかい気持ちが、深いところから湧き上がってきて、静かに広がってきました。
『これは、私の中心にある大切なものだ・・・!』
以前、セラピーの師匠である手塚郁恵先生から『京子さん、深い悲しみを知っているからこそ、その深い思いを持って、人を心の底から愛することができるのよ』『深い悲しみは宝物なの』と言われたことがありました。今また、『本当にそうだなぁ・・・』と、この言葉がじんわりと身体に沁み入りました。
この度の体験は、本当に大きな気づきをもたらしてくれました。
親を思いやる気持ちは、自分自身の中にある素直な優しさであり、ここが実感できたとき、他の人の心の内にも、今感じているものと同じものが在る・・・
人間には、大変な時こそお互いに助け合いたい。協力し合いたい。悲しい時には共に泣き、静かに側に居たい。嬉しい時には共に笑い、喜び合いたい。困難に直面した時には、逃げずに向き合って、共に良い方向を探し合いたい。自分の力を惜しまず出して、何かを一緒にやり遂げたい。伝えていきたい。未知なものに挑戦したい・・・などなど純粋な願いが沢山ある・・・
とにかく「いのち」は、人と深く関わり合いたいのだ・・・と、自然に思えてきました。
そうだ!人間はみんな健気で、可愛らしく、愛に溢れた存在なのだ・・・
ずっしりとしたこの感覚は、今の私を心地よく潤してくれています。