マインドフルネス・セラピー ぬくもり

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2024.01.01
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「いのち」の賢さ

 

誰にでも、この事に触れると、なんでこんな気持ちになるんだろう?という不思議な事があるのではないでしょうか。

 

私は、夫から『今日は何時に帰るの?』と聞かれると、途端にイヤーな気分になるのです。きっと何か訳があるのだろうと思っていましたが、面白くないので長いことほったらかしにしていました。

 

実は、夫から何で叱られるのか分からないことがしばしば起きていたのです。

 

ある時嵐が来ると言うのに出かけたところ、電車が止まって帰れなくなり大変な思いをして夜中にやっとこ帰宅したら、信じがたいことに締め出されていました。何でこんな事になるのかと長いこと意味不明でしたが、やっと明らかになりました。

 

いつも、私の不注意な行為『あっ!やってしまったー』が絡んでいるので、このこと以外でも反論しずらく、納得のいかないまま、うやむやにしていることが結構あったのです。

 

今回は意を決してマインドフルネスになり、この有耶無耶なところに意識を集めて行きました。

 

すると、初めは夫への不平不満が一気に噴き出してきました。

 

『お前は俺のいうことを聞かないで自分勝手な行動をする・・・それで周りが迷惑してるんだ』『だからちゃんと教えてやるんだ・・・』

 

『はあ〜?』『何なのこれ!』『おかしいでしょ!』という不満と怒りです。

 

でも・・・私も密かに夫は人間らしい情のない残念な人だと見下していた・・・こんな蔑視も変だ・・・と、心の奥の私が目を覚ましました。

 

残念なのは、夫も私も大事なことが何にもわかっていなかったということです。

 

私たちは日々望むと望まないとにかかわらず、いろいろの体験をしています。勘違いや失敗、怪我や病気、成功や賞賛など実際に諸々の体験をして、その度に喜怒哀楽しています。

 

これはごくごく当たり前の日常なのですが、『これが人生さ・・・』と漫然と流して生きていることに、疑問が湧きました。

 

〈当たり前〉ということは、〈これが必要だ〉ということで、軽く流すのが当然ではないということです。

 

生き物は、胎児の時から自分が生きていくのに必要な栄養を取り入れて身体をつくり、生まれた後は、体験を通して様々な事を自然の中から学び取って成長して行きます。

 

人間だって原理は同じです。自分にとって必要なことは、実際に体験して、心の底から色々感じて、自分のものにして唯一無二の自分に成っていくのです。

 

そのために嬉しさや優しさ喜びの体験、悲しさや辛さや苦しみの体験、悲喜こもごもの体験をすることが、とっても重要なのです。この掛け替えのない体験を通して身体も丈夫になるし、心も人間らしく他の人の心の痛みの分かる豊かな人間性が育まれるのだと思います。

 

悲喜交々の体験をすることが〈当たり前〉で、実際に味わってはじめて大切なことを体得していけるように、私たちは生まれているのです。これは宇宙の法則なのだと思います。この法則をきちんと我が身に受け取って生きる事はとっても大事なことです。大切にしなければならない必須なことで、頭の先で分かった風にして漫然と流してはならないのです。

 

私たちが歩き始める時のことを思い出してみると。ある日突然つかまっていた物から手を離し、転びつまろびつしながら、泣き笑いしながら、時にはぶつかって痛い思いをしながら何度も立ち上がって、果敢に挑戦を続け、ついに10歩20歩と歩いて進んできました。

 

この時の体験と感動。たとえ身体に不都合があったとしても、身体の奥からの要求に沿った動きを、無心に繰り返していくことに、「いのち」は心の底から快感を感じているのです。

 

それなのに、体験して気づいていく貴重なプロセスを優しく見守ろうとしないで、間違わないように先に正解を教えよう、それでも間違えたら罰を与えよう。失敗しないように色々と対策を立てておこう。怪我をしないように、危険なものはことごとく排除しておこう・・・もちろん命にかかわる重大な危険がある場合は、いち早く対処しなければなりませんが、痛い思いをすることは、本当は大切な体験なのです。困難をことごとく回避してしまったら、自分の内面の「いのち」の力を信じて挑戦して行く、「生きる力」を取り上げていることになってしまいます。これでは人間らしい人間にはなれません。

 

失敗を罰してしまったら、学ぶチャンスを取り上げられ、大切な気づきへの道を邪魔されることになるわけですから、「いのち」はがっかりして当然でしょう。誰の「いのち」も、この賢さを軽んじられると不愉快になるのです。

 

子供の時に、間違いや失敗を親から大らかに受け入れられ、見守り必要な分だけの手助けをしてもらう関わりがあれば、「いのち」の尊厳は大事にされていますから安心して成長することができます。

 

間違った言動をしたら、そうならないように厳しく躾ける。優しくしていたら効き目がないからと、飴と鞭を使って身体に覚えさせる・・・この考えは一見良さそうですが、ちょっと立ち止まって感じてみると、人間が人間として成長するための大事な要素を、一方的な考え方で、強引に取り上げてしまっていることになり、その残念な行為は違和感として無意識に残っていきます。

 

私が嵐の時に出かけて家族に迷惑をかけたことは、確かに間違った行動でした。夫に咎めら罰せられなくても、自分の非は、素直にきちんと認めています。

 

間違いに気づかないほど私は愚か者ではありません。罰を与えなければわからないほど、神経の鈍い人間でもありません。

 

締め出されたことに対して、感じていた違和感は、私の「いのち」の賢さを軽んじられたことへの怒りでした。さらに言うなら、「いのち」の賢さに、自分自身が十分気づいていなかったということです。

 

怒りは夫に対してではなく、私の「いのち」から私への大事なメッセージだったのです。それを勘違いして、夫のせいにしていたのですから、恥づかしい次第でした。

 

私自身が、自分の「いのち」の賢さに、きちんと目覚めていたならば、堂々と夫と話しあって、自分の非を認めた上で、人は皆、間違いも失敗もする。それはその人の大切な学びの体験なのだから、これからは、叱るとか、諌めるのではなく、お互いに優しく見守り合おう・・・人間の「いのち」の賢さを信じ、尊重し合おう・・・と、言語を介して分かち合うことができたでしょう。

 

しかし残念なことに、あの時の私は、何でこんな事になるのかわからないまま、触れたくないこととして遠くに追いやっていました。

 

今やっと、あの出来事の不可解さが私の中で解明され、だれかが悪かったという問題ではなく、私の「いのち」の賢さを自分でも軽視していたことに、素直に気づけたことが、何より嬉しいのです。

 

私の「いのち」だけが賢いのではありません。

 

私たち一人一人の「いのち」が賢く尊いということです。これこそが「いのち」の尊厳です。

 

躾とか教育という名の下に、この一番大切にされなければならない「いのち」の核の部分を、頭の価値観でしつけされたり罰せられたりすることが、問題なのです。また、罪悪感と巧みにくっついて感じられなくなってしまうところに、人生の落とし穴があるのです。

 

違和感をたやすく流してしまわないで、無意識とつながるセラピーをしてください。大事な自分へのメッセージを受け取ることができるでしょう。

 

私は今、『何時に帰るの?』と聞かれても嫌でもないし、自分から先に何時に帰ると告げています。とっても快適な日常になりました。

 

 

 

 

 

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