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共に
『共にって言ったら一緒ということでしょ。何をそんなに考え込んで居るの?』
って笑われそうですが、この言葉の持って居る意味はとても深いと感じています。
家族といえば親と子が寝食を共にして生活して居る場所であり、お互いをかけがえのない人と感じています。
しかし、本当の意味で気持ちが通い合っているかというと、果たしてどうでしょう。
同じ屋根の下に一緒に生活しているからといって私たちはそれぞれ違った感覚を持っていますから、目の前の諸々の出来事に対して感じていることは違っています。
違っているからこそ、一人ひとりが今感じていることを感じたままに安心して言えるスペースと、意見を交わし合って共感し合うことが必要なのです。
ところが親は自分の感覚が正しいと思い込んでいますから、なんの迷いもなしに子供の気持ちを無視して自分の価値観や趣向を一方的に押し付けてしまいます。
共に暮らしているからといって感じていることまで一緒がいいのではありません。これは“共に”を都合よく曲解しています。
私たちが日々生きている実感は、今自分が何をどう感じているのか、どんな気持ちなのかにきちんと気づいていることです。
ただ暮らしを共にしているだけでは、お互いの気持ちを分かり合うことはできません。意識的に心と心を通い合わせていく働きかけが必要です。お互いが向き合ってきちんと心に働きかけをしなければ、ただ一緒にいても本当の意味での“共に“にはならないのです。だから『お互い苦楽を共にしてきたはずなのに・・・』『あれっ?・・・』なんてことがしばしば起こります。
我が家もそうです。50年以上共に暮らしているのに夫と心のコミュニケーションは取れていません。夫は結果が大事、私はプロセスが大事と思っていますから気持ちは大きくすれ違うのです。
最近私は、ことあるごとに立ち止まって『〇〇のことで、話し合いたいから時間を作って』と夫に改めて申し入れをして、きちんと向き合って時間をかけて話し合うことにしています。こうして意識的に関わらないと、私の気持ちは全く伝わっていないことに気がついたからです。
振り返ってみると、結婚当初から夫は仕事に全精力を傾ける。私は本家の長男の嫁として、親や親戚、近隣との関係、子供のことと家事全般を担当するという分業でした。
ですから今までの我が家は、お互いに何を感じ何を大事にしたいのかを家族間で話しあって、協力しあって生活をしていたのではなかったのです。単に自分の守備範囲をそつなくこなすことがお互いにとって良いことなのだと漠然と思っていただけでした。
これは本当の意味の信頼関係ではなく、相手への無関心を信頼だと思い違いをしていただけでした。
せっかく縁あって夫婦になって、一つ屋根の下に暮らしてきたというのに、私たちは目に見える部分ではいろいろなことを乗り越えてきて居るのですが、その時々に何を感じていたのか・・・しみじみと気持ちを分かち合ってこなかったのです。これはその現場に自分自身が不在だったということです。
お互いに真剣に関わりあっていれば、共に協力する楽しさや助け合う安心感、とことん困り抜いて、なす術もなく途方にくれている時でさえ一人ぼっちじゃないんだという気持ちを味わえたのに・・・長いこと心にすれ違いがあることにさえ気づかないまま、夫婦も長くなるとこんなものかと感覚を鈍らせていたのでした。
心のコミュニケーションがあれば、お互いの心の中にポッと灯火が灯って居るあったかい状態を感じ合って、共に心の成長ができたのに・・・せっかくのチャンスを、この醍醐味を日々の忙しさにかまけてスルーしていたのです。
めまぐるしい現代は“共に”の本当の意味も知らずに人と人の関わりが希薄になって、心の中の灯火やぬくもりを知らないまま一生涯を終わってしまうことも少なくありません。
私は今まで家族以外の方とは心を通わせてきましたが、夫を始め子供や孫たちとは何となく深入りしない付き合いだったと気がつきました。これでは片手落ちで寂しい限りです。これからは家族と、もっと熱い想いを持って本物の関わりをしたいと思っています。
家族という掛け替えのない出会いの人々とそれぞれの気持ちに寄り添って、イキイキワクワクと生きていきたいものです。
セラピスト 福田京子