マインドフルネス・セラピー ぬくもり

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2020.08.01
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「怒り」

 

多くの人が「怒り」は悪いものという概念を持っています。だから、真正面に向き合うのを避けようとします。しかし、「怒り」を曖昧にしていたのでは、本当の自分に出会うことはできません。

 

私は手塚郁恵先生に出会って以来、「怒り」を避けて通れない環境の中に身を置くことになりました。そこでひたすら自分自身の心の奥深くに封じ込めていた「怒り」に向き合ってまいりました。そして「怒り」を体験的に経過させ、多くのことを身体を通して学んでまいりました。

 

親と子の間で連綿と繰り返され発生している「怒り」

 

子供の感覚は、身体の感覚であって瞬間的であり、人間の本質につながっています。人間らしい活力にあふれた新鮮な感性です。100パーセント自分の気持ちを表現しています。言葉が未発達のぶんだけ、身体感覚として感じとっています。

 

それに対して大人は、自分の価値観をもって(ネガティブ感情は弱く悪いもの、出したらみっともない、恥ずかしい行為だ、人に嫌われる、馬鹿にされる、人の迷惑になる・・・など)という固定観念に固執しています。それで、子供の感覚を『そうだね』なんて認めたら、その子供がわがままになってしまい、将来困ることになると思い込んでいるのです。

 

そこで大人は、子供の自然な感覚を悪いもの、ダメなものと決めつけ、その表現を否定してきます。この否定が子供の活き活きと生きようとするいのちの流れに影響を与え、時には流れを止めてしまうことすらあるのです。

 

子供の自然な感覚は、そのときの気持ちを『そう思っているんだね』とわかってもらえれば、それだけで納得するのです。幼い頃には、感じたことを感じたままに表現し、それをスッと受け止めてもらう体験がとっても大切なのです。

 

まずは、自分の気持ちをわかってもらった上で、分からなかったことや物事のあり様などを、面倒がらずに教えてもらうなら、気持ち良く納得していくのです。むしろ、いろんなことを身体を通して知りたいのです。そして、いろいろなことに挑戦してみようと好奇心がどんどん膨らんでくるのです。子供の感覚は単なるわがままではありません。

 

人間に取って、この好奇心が生きる楽しみを生み出す元であると同時に、生きる力の大元になっているのです。

 

 

「怒り」は生き抜く力

 

「怒り」はエネルギーそのものです。その扱いは慎重にしなければなりません。

感情に呑まれ、頭の思いのままに相手に向かって出してしまったら殺人剣と化してしまいます。

 

しかし、どんなに激しい「怒り」でも、腹で「怒り」をとらえていくなら、それは自分への大切なメッセージになっていきます。

 

「怒り」を自分へのメッセージとして活かしていくなら、どんな状況の中にあっても冷静で居られます。そして、どんな過酷さにも挫けず、堂々と生きて行くことができる、かけがえのない力となっていくのです。

 

 

「怒り」を丁寧に感じきり、じっくり経過させて行く

 

「怒り」を外に出さない為に感情を呑み込んで我慢をすることが習慣になっていると、それがパターン化され、自分の身に起きていることなのに、意識では他人事になってしまうのです。これは一見、冷静で素晴らしいことのようですが、腹で受け止めているのとは違います。感じたくないので、体裁良く自分から切り離しているだけです。

 

この行為の下には「怒り」を感じることへの恐怖が横たわっているのではないでしょうか。もちろん誰でも「怒り」を感じるのは恐怖です。だから、「怒り」をきちんと扱えるプロに沿ってもらう必要があります。

 

自分には「怒り」はないと思っているなら、小さな「怒り」に気づいてみることから始めてみましょう。「怒り」は生き物にとって大事な感覚ですから、生きている以上「怒り」のない人はおりません。より添ってもらいながら少しずつ「怒り」を身体全体で感じてみましょう。次から次に「怒り」が感じられ、自分が何に怒っているのかが感じられるまで、根気よく感じ切っていきましょう。これを繰り返していくことがとても重要なプロセスになります。

 

 

「怒り」は人間の多様性に気付かせてくれる。

 

自分が何に怒りを感じているのかが分かってくると、自由で柔軟な感受性が少しずつ蘇ってきます。すると、他者との感受性の違いがはっきりと分かってきます。興味の違いにも気がつくことができます。一人一人の顔が違うように、10人いれば、10人とも感じ方や表現の仕方が違うのですから、人間の多様性に心の芯から気づければ、「怒り」の方向には向かいません。

一人一人みんな違うから、お互いに助け合い協力し合えると、心の底から気持ちよく思えて来るのです。

 

 

 

「怒り」は逆転の発想を呼び起こす

 

私たちはみんな、自分の存在への否定が一番嫌なのです。

 

存在の否定がどんなに残酷であるか!この残酷さに対して怒っているのです。身の毛が弥立つ思いで必死に訴えているのです。

 

「怒り」のエネルギーは生きようとする力です。どんな状況の中でも再び立ち上がろうとします。無意識の中に宿っているこの力は、被害者意識にのみこまれそうになっても、人の温もりに包まれることで、本来の働きが蘇ってくるのです。

 

激しい自然災害や事故などで大切な人や大事なものをうしなっても、人は再び立ち上がって青空を仰ぎ、笑みをとりもどしていくたくましさを持っているのです。それは知識として身に付けたものではなく、身体の奥の方から湧き出てくる力です。辛さや苦しさ、あり得ないような非情さやみじめさ、この上もない屈辱感を完膚無きまでに味わって、もうダメかも・・・と肩を落とした瞬間に、その対極にある自分の中の最上の優しさにふれることができるのです。

 

人間の心には、こうした真逆の働きがあるのです。

ここ一番という大事な局面で、こういう奇跡のような現象が起こってきます。

 

それには、「怒り」を安全な環境のなかで、怒りの炎を燃えつきるまで燃やしていくのです。すると必ず終わりが来ます。自分はこんなに怒っていたんだ!と、その激しさにビックリするかもしれません。生まれて初めて、自分のなかにそんな怒りがあったんだ、と気づくことでしょう。

 

それは、ひとりの人間としての尊厳を取り戻すことなのです。

 

怒りの炎が燃えつきると、自然に火は消えます。あとには、ほっこりとあたたかいオキが残るでしょう。静かで、何もなくなった感じがするかもしれません。怒りは、ただ誰かに、そして自分に、何に怒っているのかを分かってもらえさえすればそれだけでいいのです。

 

全身で表現して、すべて意味のある大切なものとして受け入れてもらえれば、それでいいのです。

 

これは「たまっていた怒りを発散すればすっきりする」というレベルではありません。自分の実感を取り戻すことによって、自分自身の感覚が甦ってくる、ということなのです。

 

そして、この体験によって、自己イメージはまったく変わります。自分の感覚をなくしてまで生きのびてきた、その生命力の強さに「よくそんな中で生きてきた!・・・」と、しみじみそういう自分に感動を覚えるのです。その感動が、自分の「いのち」に対する信頼感となって、じんわりと染み渡ってくるのです。

 

 

瞬間の怒りを感じて、ぱっと手放す(体験記)

 

ある事案について話し合っているとき、もの凄い違和感を感じた。

 

こんな理不尽ことがあるだろうか、と、はっきりと怒りを感じた。

 

私を利用するのにも程がある、という腹立たしさで身体が引きつれた。

 

今まで何度もイヤな感じと思っていたが、こんなに卑怯な状況の下に身を置いて居たとは気付いていなかった・・・今日は自分が新鮮に思えるほど身体で怒りをはっきり感じている。

 

今まではこの屈辱感を、「まあいいいか〜」と流していたのだ・・・。

 

やっと今、一瞬の怒りを身体の感覚として感じ、理不尽さを相手にきちんと伝えることができた。いたって冷静にだ。何時もの諦め感に支配されていない。相手を軽蔑もしていない。

 

これは瞬間で怒りを感じて表現し、同時に手放せている・・・という事だとおもう。

 

私は今日まで、いくつもの怒りを、その都度きちんとワークをして経過させてきた。そういう積み重ねが現実に反映されたのだと思う。

 

心を成長させるということは、感覚ブロックに気付いてそれを手放し、身体の深部で、何が起きているのかを冷静に感じていることだ。(洞察)

 

冷静に状況が感じられれば、その瞬間に怒りの感情は自分の思いの中(頭)から放れていく。怒りの感情から解き放たれている心の軽やかさが感じられている。

 

怒りの悔しさから解放されなければ、人と協力して仕事をやっていくことはできない。

 

私は今、自分の感覚を信じて新しい挑戦をしている。

 

今は、以前のように、自分が責めを背負う形でその場を収めようとしていない。今は自分が何に対して怒っているのか、冷静に感じとっている。

 

怒りが自分の内面で統合されているから、相手に怒りの言葉を言わずに済む。

 

これが、「怒りを手放す」ということだ。

 

 

 

何気ない言動から (体験記)  Aは京子

 

AはCに夕食の支度を頼まれていた。Aが盛りつけをしているとき『盛りつけに心が入っていない』とCから指摘された。

Aは、ちょっと腹立たしかったが、Cの盛りつけを見たとき「なるほど・・・」とおもった。たしかに違いがある。

 

すぐにCとは見ている所が違うのだと気がついた。Cは素材にたいして、また、それを作った作り手のことまで感じて盛りつけているのだ。

 

人は誰でも自分の思いや感じ方しかできない。とっさの場合は尚更のこと、自分以外の人の気持ちなど感じている余地はない。つい自分の気持ちを最優先にして主張したくなる。しかし、人は自分のことしかわからないという人間の大前提をきちんと捉えていなければならない。この部分が知識としてではなく、自分身体感覚になっていないと、互いの主張合戦になって怒りを助長することになる。

 

AはCの指摘が切っ掛けとなって、AとCの感じかたの違いに気づくことができた。一瞬の不愉快さを流さずに意識を当てたおかげで、お互いの感じ方や関心の向けかたの違いを大事にしようと素直に思うことができた。違いがわかれば冷静に『そうだね』がうまれる。

 

ささいな出来事ではあるけれど、どんな怒りも、ささいなことから始まる。

 

セラピスト 福田 京子

 

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