ブログ
自分を知る その1
「本当の自分を知る」という言葉を聞くと、それじゃ「嘘の自分」があるの?と問いたくなるでしょう。
確かに今、自分だと思っている自分は、本来の自分の姿ではないのです。
例えていうなら、水鏡に映し出されている自分を見て、自分だと思っているようなものです。
先日、世阿弥作の「野守」という能を観てきました。
この能の前場に鷹の話が出てきます。その話は高貴な人の鷹が逃げてしまったので懸命に探していたところ、鷹の姿が池に映っている、その鷹は、池のそばの大きな木に止まっていることを野守が教えてくれたというものです。私はこの挿話に心が反応しました。
この挿話は、心のことにも似ていると思ったのです。鷹の話は池に写っているのを見て、木の上にいる鷹を無事捕獲したというものですが、心の事は、もともと見えないものですから、とらえどころがありません。
しかし、諦めないでください。手がかりがあるのです。
まず、現実に起きている現象を見るのです。これは、水に写っている自分の姿と同じなのですから、目をそらさずに落ち着いて現象を良く観るのです。
ここからは、理屈ではなく想像力を発揮して感覚で読んでください。
仮説として、今自分が直面している諸々の出来事は、水に映し出されていることと捉えてみるのです。静かに池を覗き込むようにして丁寧によく観察するのです。
目の前の事は、現実に起きていることですが、大本があって結果として現れているのです。鷹が木の上に居るから水に写っているのと同じ原理です。
鷹を見つけるということは、現実に起きていることの大本に気づくということとですから、セラピーに通じているのです。
セラピー的に言うと、鷹を見つけ出し、その鷹と向き合って本音で対話をし共に感覚をとぎ澄ませていくのです。つまり、水に写っている自分の姿を手掛かりにして、じっくり洞察し感じていくことによって、本当の自分を見出していくのです。
もしも今、自分はダメな人間だと思っているとします。すると、水に写っている姿も、ダメなように見えている事でしょう
水は、自分が思った通りの姿をそのまんま映し出して居るだけです。だから大本が変われば、当然見える姿はかわります。
理屈で考えると難しくなりますが、想像力を使って『そうかも・・・』と思えると次の扉が開いてきます。
世阿弥はすでに650年も前に、見えない心を想像力を駆り立てて感じ取っていく演劇(能)を創りだしました。人間の持つ普遍的な喜怒哀楽の感情を題材にしていますから、誰の心にも響いてくるところが随所にあります。はじめは物語を見ていると思っていますが、いつしか自分のこととして心の奥が耕され、無意識で『本当にそうだな〜・・・』と共感したり共鳴したりしているのです。そして物語が終わる頃には、自分の存在が丸ごと肯定され、心の奥が清々しくなっているのです。
本当の自分を知ることは、理屈で解析していくのではありません。知識の集積の結果でもありません。途中で居眠りをしながら能を見た後のように、漠然としているけれど妙に確信に満ちたものが感じられてくるのです。それは自分にしか分からない感覚の中から生まれ出てくる、実のある確かな感覚です。自分の本質に出会えると、意識していないものが醸し出されてくるので、水鏡の中の自分は確実に変化してきます。
大切な鷹を見つけるような気持ちで、本当の自分に出会う新しい物語のページを開いてみてはいかがでしょう。
セラピスト 福田 京子