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知識と感覚の違い
軽い頭痛を感じたので、セルフワークをした。
頭に手を当てていると、母かたの祖父がおもいだされてきた。
明治30年代うまれの祖父は、とても子煩悩な人で、初孫である私のことをとても可愛がってくれた。よく遊んでくれた。あぐらの中に入れてくれて、本をよんでくれた。アルプスの少女ハイジが大好きだったので、随分読み聞かせをしてもらった気がする。初夏には蛍狩りに連れて行ってもらい、捕まえてきた蛍を蚊帳のなかに放し、寝付くまで側に居てくれたことも懐かしい。風情のある時間を共有させてもらった。夜店も私の好きなところで、良く連れて行ってもらった。散歩のお供をしては、神社仏閣にもよく行った。それとなく、いろいろなことを教わった気がする
祖父は栃木県の禅寺雲巌寺の老師と懇意で、毎朝仏壇に経をあげるのが日課で、老師の話もしてくれた。私は幼稚園から小学校低学年の頃までは、祖父の後ろで経が終わるまでちょこんと座っていた。強制的にではなかったが、祖父の家に行ったらそうするものだと、思っていたようだ。祖父は人の道とか善悪のこととか、それとなく話して聴かせてくれたようにおもう。
そういう祖父は大好きだったし、嫌だとおもったことは、ほとんど無かったが、今回、セルフワークをしていくうちに、不思議な感覚がしてきた。墨痕あざやかに書かれた「教え」という文字がうかんできた。あれっ・・・善いこと正しいことをしなければ・・・と思い込んでいるかもしれない。窮屈まではいかないが・・・これには温度がない・・・ゆらゆらとした心地よさがない・・・と感じている。
無意識と繋がって自分の感覚を感じていると、自ずと心地よい方向に導かれてくる。心地よいことは楽しく面白い。すごく自然。自分をを信頼している。尊重している。まるごと肯定している。条件付きの肯定ではない。必要な事が必要に応じた形でなされていく感じがする。無理がない。違和感がない。
恩を着せることも無ければ、不平も無い。お互い、困ったときには、できることをしながら、助け合い、焦らずじっくりと待っていることが出来る。何より温かくて心地よい。
セルフワークのなかで、はっきりしたのは、私の内面の「いのち」の感覚の心地よさに委ねていきたいということ。祖父からそれとなく教えてもらったものは、頭で覚えた知識だった、と分かった。知識は固い感じがする。あったかくない。もう知識としての「教え」は丁寧に奉納したい。そうだ、私のすきな奈良の新薬師寺に奉納しよう。
祖父からの「教え」を鄭重に奉納したあと、身体が自由になって以前よりも愉快な気持ちが広がって来た。
福田京子