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言い合いの妙
家族3人、夕食の食卓につき、さあ、これから食べ始めましょうと言う時、
『ちょっとお父さん、飲みすぎなんじゃないの?』
『いつもとおんなじだ!うるせぇこと言うな!』
私は正直うんざりしました。
でも今回は、とことん「ウンザリ」しようと、早々に腹をくくりました。
夫は晩酌は俺の何よりの楽しみなのにと、カッカとして、私に援助を求めてきましたが、私はもう昭和の良妻賢母ではありませんから、あなたの味方はしません。どうぞご自由に言い合ってください・・・という気分。
当の二人は、だんだんと声を大きく張り上げ、自我を全開にして、真剣に言い合いをしています。
最初は、騒々しいと思いましたが、やがて、夏ゼミが声を限りと鳴いているような気がしてきて「ああ、夏真っ盛りだな〜」と、どこか心地いい感じがしてきました。
そういえば・・・今まで、「言い合い」をこんな風に爽快な気持ちで受け取ったことはなかったな・・・
話の内容ではなく、激しく相手と言い合うことを、私は見苦しいこと思っていた・・・
これって、私の勝手な思い込みだった!・・・
私の育った家では、嫁姑の陰険なバトル、夫婦喧嘩、兄弟喧嘩など、大声を張り上げて罵り合う場面を見たことがありませんでした。大げさに言わなくても、嫌だと言えば、それ以上押し付けられることがなかったので、その時々の感情を自由に発散しやすかったのだと思います。
ただ嫁ぎ先では反対で、表面的には静まっていましたが、こちらは、何か根深いものが澱んでいる感じがありました。陰険さがあって、よそ者の私は、蚊帳の外にいるしか居場所はないと言う重たい雰囲気がありました。
私は3人兄弟の長女で、母方の祖父母に特に可愛がられ、欲しいものは物心両面において、大げさに要求しなくても大抵のものは手に入っていたのです。
私は、戦時中生まれで、物資のない時代に育ちましたから、特に贅沢なものに囲まれていたわけではありません。ただ無ければ無いなりに、有れば有るなりに、分け合うことや、大変な時、困っている時にはお互いに助け合っていけば、なんとかなるということを、周囲の大人たちの生活ぶりから、見聞きしていました。そして、世の中はそういうものだと身体を通して会得していた気がします。
このことは、大人になってからも、他の人の生活を過度に羨ましがったり、必要以上に、いろんなものを欲しがったりしないで済むので、気持ちは常に楽でした。
ただ今回の夫と娘のやり取りを聞いていて、私の背中には、明治生まれの祖父母や、戦前の教育を受けた両親の独特な価値観が、しっかり乗っかっているのを感じました。
それは「揉め事は恥ずかしいこと、大声で言い合うことは見苦しい」というものです。
そのために実家の祖母や母が、困りごとを一人で我慢しているとは感じていませんでした。が、結婚してからは「女は我慢するのが当たり前。嫁は自己主張をしてはいけない」ということを、事ある毎に思い知らされました。
これって一言でいえば、女子供は自己主張をしないで黙って夫や親に従っていれば良い。そうすれば、家の中は円満に治さまる。と言われている事ですから、この理不尽さには、違和感を感じていました。
しかし令和になった今でも、「我慢は美徳」「私一人が我慢をすれば、万事がうまく行く・・・」と自己主張することは悪いこととして、子供を、その価値観で縛ったまま、悩み苦しんでいる親と子がまだまだ多いことも、事実です。
今回夫と娘の言い合いを聴きながら、私も以前は、大声で言い争いをすることは見苦しい・・・なんでそうも相手を言い負かそうとするんだろう・・・もっと静かに話せば分かり合えるのに・・・と、不愉快な思いをしていました。
しかし今回、分かったことは、お互いに、とことん自己主張をすることは、良い事だ!・・・やるだけやれば、気がすむ・・・そこまで思い切りやれば相手を受け入れることができる・・・これで良いんだ!・・・
これが良いんだ!・・・と、すっきりと目が覚めました。
時には言い過ぎるまで言うことが大切なんだ。それで加減がわかる。やり過ぎてしまったという心の痛みが、物事の加減を教えてくれる。
言い争いを恐れるな!
なまじ、まあまあなんて仲裁に入られたりしたら、中途半端な気持ちで手を打たなければならなくなる。周囲の人の「良かれ」は当人同士の気持ちを粗末にしていることになる!余計なお節介では済まない。お互いの心の成長の芽を摘み取っているばかりか、両者の心の中に不満足を溜める行為にしかならない!
ああ、子育て中の私は、この「良かれ」をやっていたなぁ・・・子供に中途半端なモヤモヤを味合わせていたんだと、はっきり気がついたのです。
喧嘩や激しい議論が悪いのではない。
穏やかなことが良いのではない。表面に波風のない事が良いのではない。
喜・怒・哀・楽の感情は人間の人間たるところであるから、感情を心の奥に押し込めて、超越したようなふりをしたところで、それは本物ではない。
本当に高尚なこととは、時には自我を出して、とことんやりあったり、なりふり構わず集中して何かを極めた後に、身体の奥の方からじんわりと醸し出されてくるものだ。
それは、決して綺麗事では得られない!良書を読み良い話をいくら聞いたとて、それは思い込みにしかならない。自分の身体をもって体験したものでなければ、自分の目覚めにはならない。
今回の夫と娘の盛大な言い合いは、私の思い込みを綺麗に吹き飛ばしてくれました。
セラピスト 福田京子