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いらだち (その2)
前回のブログで、「怒り」には触発源と、発生源があるということを書きました。
「怒り」というと、ほとんどが、目の前で起きている不愉快な出来事だけが、クローズアップされます。
目の前の人が、自分の存在を汚してくれば、途端に気分が悪くなってきて、それが高じれば「怒り」となってきます。
「怒り」は頭にきた!と表現される時と、腹が立つ!と表現されることがあります。
これは単なる言葉の違い、表現の違いだけではありません。
「怒り」を頭で捉えた時には、メラメラ、チカチカ、と火花を散らしながら相手に向かっていくような、そして一度燃え上がってしまったら、途中では消せない危険さ激しさがあります。
頭にきている人のそばにいたら、火の粉が飛んできますから、非常に危険です。
もしも、親子の関係の中、親のどちらかが、このタイプだったとしたら、子供は逃げ出せませんから、自分の存在を無いことにして、親に気に入られることだけをして、顔色を伺いながら、恐る恐る生き抜いて行くしかありません。
そして、いつしか自分が存在しているのが悪いのかもしれない・・・自分は消えた方がいいんだ・・という思い込みを作って、大人になってからも「人が怖い」とビクビクしながら辛い現実に直面しているのです。
そういう日々が続いていれば、いつの間にか、自分らしく生きるなんて、何を呑気な事を言っているんだ。人に気に入られるように、自分なんて捨ててこそ他人に認めてもらえるのだ・・・と、自分で自分を否定していることもわからずに生きていきます。これでは苦しくて当然です。
思い込みというのは、自分の気持ちの底にあるもので、自分の言動が、この思い込みから発生しているなんて、ちっとも気がつかないのです。
脈絡なく突然起きる恐ろしい日々のできごとの裏側には、「生きる」エネルギーが理不尽な力で歪められ、誰からも、気づいてもらえず固まったままになっています。そして、不都合な事件が起きれば、犯人を罰して、もう終わったかのようになっていますが、本当はそんな都合の良いかたずけかたで済む問題ではないのです。
「怒り」を発生源でだけで捉えていたのでは、決して本当の解決にはなりません。根源においては、相手のせいにして相手を責める同じことの繰り返しになってしまうのです。
それでは「怒り」を腹が立つと、腹で捉えたときには、どんな感覚が出てくるでしょうか?
このことに関しては次回に書かせていただきます。
セラピスト 福田京子