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体との対話
体との対話というと、何かおかしな声を聞いているように勘違いされそうですが、自分の感じていることを言語化しているのです。
感覚を言語化して他の人に伝えることは、本当に難しいことです。なぜなら、感じ方はみんな微妙に違うし、見えないことだから。それでも面倒がらずにやってみようと思っています。
先日、真夜中に非通知の電話がなり、とっさに出たら、迷惑電話だったので、すぐに切り、何事もなかったことにしてそのまま寝ようとしたのですが、体がどうしても寝ないというのです。仕方なく起き上がり、しばらくぼんやりしてから、『なんなの?』と、体に意識を向けたところ。
体『ものすごく、あの電話不愉快だった。嫌だった。』『それなのに、
明日の都合を考えて、知らん振りして寝ようとしたでしょ!』
京『えっ?』『そういえば・・・不愉快だった・・・腹が立った・・・』
体『そうだよ!それなのに自分の都合を優先して、私が感じていたことを
ないがしろにしているから、それが嫌だったの。』
京『そうだったんだ・・・わかった・・・確かに一方的だったね。了解。』
体『わかればそれで、いいんだよ』
と、頭と体が握手して朝までぐっすり。これは体の感覚と意識が融合して、新しい境地が拓けたということです。
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私たちは日々、自分の都合の良いことばかりを考え、思い通りになるよう考えています。一度それがうまくいかなくなると、必死になって理屈を考え出し、相手を追い詰めたり、攻めたり、脅かしたり、親切そうにしたり、ありとあらゆる手を駆使して、なんとかしようとします。こうして頭は、合理性をモットーにして何かを原因にして、それを排除したり、または他者を悪者にして終息させようとします。問題と自分とを切り離していくのが頭の特徴的な働きです。
しかし体の方は、あくまでも自分自身がどう感じているか、という一点に尽きるのです。それが何より大事な事で、自分を守る基本です。そして他者を守る原動力にもなっているのです。誰かを悪者にしたり、排除しようではなく、まずは身を以てひたすら感じているのです。感じれば、何をどうしたら良いかが分かってきます。これが、自覚という事で、体が感じていることは、それを無視することはできません。特に、体で嫌だ、と感じていることを、頭で、都合よくコントロールすることはできないように、体はできているという事実です。
どんなことでも、自覚があることと、自覚なしにやるのとでは大きな違いがあります。
非通知の電話を受けた時、私は迷惑行為をしている人の方に意識を向け避難し、自分の都合優先で寝ようとしていたのです。ところが体は、自分がどう感じたのか自覚するほうが先でしょ。と、教えてくれたのです。身を以て「嫌だ」を感じられれば、人は相手が嫌がることはしたくない生き物なのですから。
しかし、自覚しないで相手の行為を非難しているだけで終わりにしていたら、体験が身にしみていないので、たやすく加害者側になってしまうのです。そうなっても、執拗に自分の正当性を主張し、人の痛みが全く分からないのです。分かろうとしないのです。これが頭の残酷さです。これは頭だけで自分に都合よく処理しようとしている現代人の一番陥りやすくて、恐ろしいところです。
わたしたち現代人は、体で感じたことを、頭で素直に受け取っていく訓練が、今こそ切に必要なのだ・・・と、しみじみ感じています。
福田 京子