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NHK朝ドラ「スカーレット」最終回を見て
このドラマは滋賀県信楽を舞台にした、陶芸家の物語であった。
最終回は、最愛の一人息子が亡くなったというナレーションから始まった。
毎朝見ていた私は、いつしかドラマの中に入り込んでいたので、『アッ』と息をのんだ。朝のドラマなのだからハッピーエンドになるだろうと、勝手に都合よく思っていたので、正直ショックであった。
ヒロインである母親の、離婚した夫との会話にもドキンとした。
『私は、自分の力で、タケシを絶対に死なせないと思っていたが、これは自分のエゴだった』と夫にいう言葉は心臓を直撃した。深いと思った。
生きていることは日々移り変わっていく。普段は当たり前のようにすぎて行くが、時には自分にとって極めて不都合なこと、到底受け入れがたいことが目の前にやってくる。私たちはそれらを困ったこととして嫌い、回避しようと躍起になってしまう。または強引に力で制圧して、目に見える形で打ち勝ちたいと思っていないだろうか。
目に見える形として『死』以上の悲しみはない。しかし、この悲しみの奥深くにあるものを感じて行くなら、感じ切って行くなら『いのち』に出会うことができる。感覚の扉を次々と開いて行くという作業を、泣きながらも重ねて行くなら、今自分の居るここのところに、静寂な世界があると感じられてくる。究極の果てに甘受する平安であり、一筋の希望だ。
死は決して不幸なことでも穢れたことでもない。死があるからこそ生が成り立っている。今生きているすぐ隣りに死がある。日本人は風に舞いながら散る桜の花を、万感を持って愛することができる。桜好きなのは、ただ見た目が綺麗だからだけではない。ここに目には見えないものを心の眼で見て居るのだと思う。無意識に死の本質を捉えているのではないだろうか。
とかく人間は、自分の都合の良いように物事を解釈しようとする。なんとかしようと頭で考えて足掻くが、じっくりと目の前のことを見て行くなら、物事は、とても単純にできているのだと思う。
「受け入れて行くこと」なのだ。
ここに大事なヒントが隠されていると思う。ところが、頭の働きは受け入れることがとても苦手なのだ。まずは疑うところから始まって、批判や比較をし否定し、なんとか乗り越えようと必死で理屈を考える。
しかし、人間は生き物だから、動物の本能的な部分を無視することはできない。いくら感じないようにしても、体で感じるという身体の感覚作用をごまかし続けることは難しい。
日本人は昔から異国の文化をうまく取り込んで独自の文化を創り出している。
日本人の受け入れ上手は、心の眼で感じとる身体感覚が生来優れているのだと思う。敏感で柔軟な感性で物事を本質で捉えて行くことさえできれば、物事が実に明快に素直に見えてくる。余分なものを大胆にそぎ落としていくことができる。ここに叡智が生まれ、難題をすらりとクリアして行くことができる。
1+1が2ではなく、1+1を100にも1000にもすることができるのだ。
感じる力は頭の知識を超え、心を成長させてくれる。
朝ドラ「スカーレット」は、大切な人の死を心の眼で受け止め、生きるとは?死とは?・・・という大事な問いを見る者にダイレクトに発信してくれたと感じた。
セラピスト 福田京子