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自分への過干渉
ピューっと冷たい風がひと吹き。
反射的にマフラーの中に首を埋めたのですが、ふと、この冷たさをしっかり感じてみようと思い、マフラーを外してみました。
一瞬ブルっとしましたが、私の体は喜んでいると感じました。そのうちに懐かしい気持ちがしてきました。
私の故郷は赤城おろしが吹きつける栃木県の足利です。一級河川である渡良瀬川の長い橋を渡る時の風の冷たさといったら、体の熱を全部奪い取るほどの勢いがありました。
特に1月、2月の赤城下ろしは、実に冷たく容赦がありません。それを橋の上で、まともに受けるのですから、風との一騎打ちみたいなものです。そう言えば、この立ち向かっていく瞬間、このきっぱりとした瞬間が私は好きでした。久しぶりに、この凛とした寒風の感触を思い出しました。
ほっぺたを赤くして、家に帰ると、穏やかな母の笑顔がありました。茶の間には掘りごたつがあり、猫が寝ています。火鉢のうえではシュンシュンとお湯が湧いていて、時には煮豆の煮えている美味しい匂いがしていることもありました。平凡な昭和の原風景です。
今、書いていて気づいたのですが、当時、私は日常の生活の中で無意識のうちに「緊張と解放」をからだ全体で体験し味わっていたのです。
何かを成し遂げるには緊張が必要です、しっかりと緊張するには、しっかりと緩んだ身体がなければ、十分に緊張することはできません。家で十分にくつろげていたからこそ、寒風に立ち向かって行く勇気や活力が養われていたのでしょう。これは、呼吸のような自然の営みです。寒さをしっかり感じているからこそ、感じ切った時の充足感が味わえるのです。充足感は身体の深部を十分に潤し満たし、緩ませてくれます。
現代の私たちは、冷たいと思えば、すぐに温かいもので身体を保護してしまいます。自分にとって不都合な刺激に対しては、すぐ対策をすることが良いと、何の疑いもなく思っていますが、ここに、現代人の落とし穴があると、気付きました。
対策を否定しているのではありませんが、対策の前に、とことん感じてみる。これがとても大切だと気づいたのです。身体は、感じようとしているのに、頭から、寒さを感じないで済む方法が考え出され、即その方法が取り入れられてしまうと、とことん身体で感じ切ることが出来ないのです。身体にとって、この素早い頭の対応は、過干渉なのです。
私の「からだ」は、いろんなことをいっぱい感じたい!冷たさだって、苦しいことだって感じたい!実際に感じてみなけりゃわかんない!本当に面白く楽しいのは、難しいことに挑戦し、四苦八苦しながらも乗り越えようとしているプロセスだと思うのです。そのプロセスなしに、苦痛のない良い結果だけを手に入れても、なんだか物足りないし楽しくないのです。
スポーツも四苦八苦しながらゴールを目指す所に面白さがあるのと同じで、人生もゴールは一つですが、そこに向かって全力で挑戦して転び、また立ち上がって進んでいく過程を、辛い苦しいと言いながら、泣いたり笑ったりしながら最後には全て面白かったと締めくくっていくのだと思います。これは人間の共通の感覚だと思います。
そして、どうしようもない辛さや悲しさを深く感じたからこそわかる、しみじみとした慈しみの感覚を、会得して仏になっていくのだと思います。
現代の便利という落とし穴に、まんまとハマりすぎていたら、この珠玉の感覚に触れることはできません。中途半端な緊張状態が続いているだけではと、メリハリがなくなって無感覚になってしまいます。これでは生きている感じがしないまま死ななくてはなりません。これでは何のために生まれてきたのか分かりません。
当たり前になってしまっている、一見良さそうな「身体への過干渉」は、私たちから、「感じる」という一番人間らしい行為を遠くに押しやっていると思います。
たまには、対策の前に、自分は今、何を感じているのだろう?と自分に問いかけてみませんか。対策の前に、子ども時代の冒険心や好奇心、遊び心に想いを馳せてみると、閉塞感から自分を解き放し、新しい自分の発見になることでしょう。さあ!ご一緒にこども心に火を灯してみませんか!
セラピスト 福田京子